シン・エヴァンゲリオン劇場版から見えたこと

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シン・エヴァンゲリオン劇場版から見えたこと

待ちに待ったシンエヴァをようやく見ることができ、そのことについて書いておきたいと思います。
ここでは作品の内容について触れます。
※まだご覧になっていない方は、ここより先は鑑賞後にお読みください。

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Qで語られなかったニアサードインパクト後の世界

前作Qでは突如14年の月日が流れ、シンジと共に観客はニアサードインパクト後の世界を唖然とししながら眺めるしかない、という感じでした。人類はほぼ滅亡したような世界です。初めて見るヴンダーと乗組員たち、どうやら取り返しのつかないことが起こったらしいことだけは伝わるミサトやアスカ、サクラの態度。
Qでは部分的にしか描かれていなかったニアサードインパクト後の世界がシンエヴァでは詳細に描かれます。目の前で心の支えであったカヲルを失い、失語状態に陥ったシンジはレイと共に第3村に保護され、そこでトウジ、ケンスケに再会します。

Qでシンジの着替えとして供給されたシャツにスズハラと名前が入っていて、シンジはそれを見て戦慄しました。一瞬のシーンなのですが、そこでああこの世界にはもう新しいものを製造する余力もなく、14年前に着古された制服すら捨てずに着回されているのかと、少しニアサー以後の世界の様相が垣間見られた部分はありました。

もしかすると同級生たちはもう誰も生きていないかも知れない。そう匂わされたところからシンエヴァでは、全員が生きていたことがわかります。ただし皆14年分歳をとり、28歳になっている。トウジと委員長は結婚し子供をもうけ、ケンスケはアスカと暮らしている。
同級生たちはシンジを温かく迎え入れますが、14歳のまま時の止まったシンジは拒絶し続けます。
アスカは手荒くシンジの世話を焼き、レイは頻繁に様子を見にきます。徐々に言葉を取り戻してきたシンジをケンスケはカジリョウジを合わせます。そしてその少年カジリョウジはミサトと加持の子であることも知ります。加持はニアサーの時に亡くなり、つまり破のラストで「行きなさい、シンジくん」と叫んだミサトは妊娠していたのだとわかります。

成長しないエヴァの呪縛とキャラクターの宿命


Qですでに開示されたことですが、エヴァパイロットは歳をとらなくなります。アスカとマリも同じく14歳のままです。睡眠も食事もいらなくなるようで、人間とかけ離れていく辛さからアスカは村はずれでケンスケと暮らし、村人とは関わりを持ちません。アスカにとってこの村は居場所ではなくて「守るところ」だと言います。

「エヴァパイロットはずっと14歳のまま」という呪縛は、アニメキャラクターとして生を受けたのものの呪縛のようにも感じられます。基本的にアニメキャラクターは大きく見た目が変わってはいけないものです。先日ふとテレビでサザエさんを見たのですが、磯野家のテレビは今もブラウン管です。生活は昭和のまま、タラちゃんは子供のまま延々毎日を繰り返している。私が子供の頃から同じです。これはちょっと怖いことのように感じました。時を進めてはいけないことになっている。なぜなら時を進めてしまうとその漫画の世界観自体も変わっていってしまうから。サザエさんがサザエさんでなくなるからです。


アスカはブラックジャックにおけるピノコのように、成長しない自分自身への苦悩を内包しています。もちろんマリもシンジもそうです。成長点を奪われている。変化しない体でいることの過酷さを、物語とアニメキャラクターであることのメタ的な方向から背負っているように思えます。
レイも村で畑仕事を手伝い、乳児や動物を見て生き物の営みを知っていきつつ、「自分は違うものでできている」ことを受け止めていきます。それはフィクショナルな存在としての自分自身への自覚のようでもありました。

留まらなくていいという選択


シンエヴァにおける大きなテーマの一つは、キャラクターの解放ではないかと思います。
エヴァに乗り続けなくてもいいということ、
キャラクター設定の中に留まらなくていいということ、
新世紀エヴァンゲリオンの世界に留まらなくていいということ。

キャラクターそれぞれの内面を告白するシーンでは、これまでのエヴァでも見られた、舞台セットのような背景が用意されます。シンジとゲンドウが戦うシーンでは、特撮セットで繰り広げられる戦いの様子やこれまで見たことのある屋内外の風景をバックに、縮尺を狂わせるようにカットが切り替わっていきます。徹底して不安定な状況で親子のやりとりは描かれます。

エヴァはこれまでも、意図してアニメが成立する世界観をほつれさせるように構築されていました。アニメがそもそも鉛筆で描いた絵であることを見せるように絵コンテが入ってくる、本来アニメ作品では見せてはいけないところを見せている。エヴァンゲリオンという作品は、アニメの外に向かって見る人を動かそうとするアニメーションと受け取ってきましたが、今回はキャラクター達にもその力が及んでいるかのようでした。まるで今まさに生きろと言うように。

エヴァにおけるアニマの力


戦中戦後の日本のようなニアサー後の庶民の生活、津波(水ではないものの)に街が飲まれるシーン、既視感のある日本の記憶の風景として受け取れます。
私にはエヴァンゲリオンという作品は、アニメーションの語源であるアニマ(命を吹き込む)のひとつの特異であり極めて優れた体現であると思います。フィクションの枠で終わらない、現実に繋がるものとして。

ラストシーンで実写の日本の駅の空撮風景につながったところはまさにそれを示唆するようでした。
エンドロールの最後まで誰ひとり席を立たなかった満席の映画館。
観客にとってこの作品は鑑賞ではなく体験に相当するものだと実感したシン・エヴァンゲリオン劇場版でした。

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畑山 紫
ライター

畑山 紫
(はたけやま むらさき)
ライター。植物とお茶、香りのするものが特に好き。
ビザールプランツの実生記録を主に投稿していきます。

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